桜におもうこと

エッセイ

 今、まさに桜満開である。この時期になると、私ならずとも日本中がそわそわうきうきする。この花の咲く姿を見逃したら、この年にこの春に置いて行かれそうな気がしてならないからだ。

 私の家から十五分ほど歩くと東坂戸団地がある。正確にはわからないが大谷川に沿って三百樹ほどの桜の木がならぶ。団地が完成される以前に植樹されたと聞くから樹齢は五十歳ぐらいだろうか、染井吉野の桜の寿命は六十歳らしいからもう老木である。

 東坂戸団地の桜並木は埼玉の名勝地二百選に入るくらいだから桜のシーズンには、あちらこちらから見物客が訪れる。もっとも以前と比べて近年は人の数が減って来たようだ。理由ははっきりしないが、私が思うには、私の家から車で十分ほど行くと伊勢原団地があり、そこの桜並木にどうも客を奪われていそうな気がしてならない。伊勢原の団地は東坂戸団地より歴史は新しく当然桜の木も若い。ぴちぴちとしてはちきれんばかりの勢いがある。私は毎年両方の桜をみるが、やはり伊勢原のほうに軍配をあげてしまう。このことは誰かからも聞いたような気がする。

 ともあれ今日は東坂戸の桜見物と決めた。その三分一のほど行ったところをそれた先に郵便局があり、そこにも用事があったから好都合である。

 桜はどれも大谷川の水面に触れんばかりに枝先が垂れている。そんな有様に私は例年になく圧倒されてしまった。老木の風格である。

 ふと「姥桜」と言う言葉を思った。「娘盛りが過ぎてもなお美しさが残っている年増、女盛りの年増」の意味なそうである。

 今はあまり耳にしないが、年取った女の人を揶揄して姥桜などと言うのを聞いたことがある。そしてこれは間違った使い方と知った時から「姥桜」の言葉をすんなりと受け入れることができたのだった。

 老木の桜並木をめぐりながら、老いることも悪くないなあと思うことにした。そして今年は伊勢原の桜よりもこちらの桜に軍配を上げようかとも。

 帰りみち、ふとなぜか、数十年前に、一年ほどだが朝夕挨拶を交わすのみだったある女性が脳裏にうかんだ。際立って美しい女性だった。輝くように美しいとはこのような人を言うのだろう。

 若いときの職場が旧NHKの隣の隣と言うこともあって、NHKに出入りする俳優の三船敏郎ほか、女優の吉永小合、岩下志麻その他の女優さんを目にしたのだが、あの女性の美しさには叶わなかったと思う。それほどに美しかった

 歳のころは二七、八歳。中小企業の社長の妻であり一児の母。たったそれのみが彼女に関する知識である。後日新聞の広告欄に彼女と娘が洗濯機を囲んでいる姿を目にした。やはりその美しさは世間が放っておかなかったと納得したのだった。

 あの美しい人も多分今は八十歳をとうに超えているだろう。しかしあの人は今も輝きを放っているにちがいない。姥桜の輝きである。いやいやもしかしたら彼女は人間ではなく桜の精だったのでは。

エッセイ集 白鳥の歌 より
村上トシ子 著

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