薺咲くバージンロード

エッセイ

父と歩むバージンロード振り返ればそこここに生うぺんぺん草は

 東武東上線常盤台駅から徒歩五分の所にある「常盤台バプテスト教会」で五十年近くも前に挙げた結婚式を思い出して作った歌である。父と共に腕を組んで歩いたのは私の記憶にある限りこれのみしか残っていない。多分幼いころにはあったのだろうが。

 わずか数メートルの距離が、私はとても緊張してとてつもない長い長い距離に感じた。恐らく父もそうだっただろう。

 それから一年数か月して父は食道がんであっけなくこの世を去ったが、そのときは誰しも思ってもみなかったことである。

 私の故郷は宮城県登米市中田町と言う所で.3・11の東日本大震災で甚大な被害を蒙った南三陸町の隣町である。建物の被害は多くあったが内陸なので津波の被害がなかったのは不幸中の幸いであった。

 岩手県との県境もいいところでそこの地名は「花泉町」夕方ともなれば開けた窓からその「花泉」の灯がチラチラと目に入る。親戚で、その「花泉町」に嫁いだ人の話だが、母屋は岩手県、便所(昔はご不浄と言い外にあった。今でもあるにはあるが、主に使うのは家のなかの水洗トイレで都会と全く変わらない)は宮城県の敷地にあるそうだ。だからその便所に行くときはふざけてちょっと宮城県まで行って来ると言ったそうだ。

 その岩手県の県境に属する故郷宮城県登米市中田町、なんと言っても自慢なのは、米の抜群の美味さだろう。宮城米の中でも登米米は宮城でも宣伝不足で新潟のこしひかりに影に置かれたようだが、うまさはそれに匹敵するとは故郷の人々の口癖である。何しろ土地名に「登米市」と米が付くくらいだから。

 遡れば天下の「伊達正宗公」の肝いりで組まれた一大プロジェクトのもとに作られた米作り、まさに歴史の産物、美味しくないはずはない。

 そしてその登米米の美味しさの要因を成すのは日本で四番目に流域が広い北上川の水質にあるとは否めない。

 農家の四女に生まれた私、金持ちではなかったのに、何不自由なく育てられた。当時高校への進学は半分ぐらい、まして短大、大学となると一握りもいいところ。(いい忘れたがその当時は上沼村と言った)当然のように私は大学へ進みたいと父母に申し出た。それも文学部である。だがこれには父母の猛反対にあった。

 それには父母なりの理由があった。知人に売れない小説家がいて、家族がとても苦労したことにあった。文学部イコール小説家と短絡に結びつけて反対した父母、今なら到底考えられないが身近に見ていただけに、心配はひとしおだったのだろう。それでも粘る私に父母はこう言ったものだ。

「東北大の文学部ならいい」と。東北大、国立大学では日本で五指に入る名門大学、受験科目は七科目もあった。中学から本ばかりに夢中で、国語、英語、社会以外はからきし駄目、特に数学に至っては赤点(四十点)すれすれの点数、並み居る天下の秀才を押しのけて入れる筈はないではないかと泣く泣く諦めた。

 本に夢中で家事の事はからっきし駄目な私を心配した明治生まれの父母のたっての願いで家政科に入ったが、後年父母はこのことで深い後悔をしたと姉から聞かされた。

 卒業後結婚して東京に住んでいた姉夫婦を頼り上京した。すぐ見合い結婚させられると思ったからである。

 結婚までの職場は商社であった。たまたま欠員があり採用されたがこれこそ驚き。なんとダミーとはいえ天下の三井物産の傘下、まともな就活ではとてもとても採用される筈にない会社。まさしく幸運の女神がほほ笑んだのだ。場所は千代田区内幸町、皇居がすぐ近く日本の一等地である。

 そこで私は素晴らしく優秀な人々と巡り合った。その中で数人の人と今でも親交を結んでいる。お化粧も覚え、身なりにも言葉にもそれなりに気を遣い、何とか東京娘の気分にあった。

 だが私の根底にあるのはいつも田舎娘、どうしてもその意識からは抜け出せない。今もそうである。それはコンプレックスでもなんでもなくてむしろ誇りと思うことも。

 だから私のバージンロードは薺が似合っていたのだ。

エッセイ集 白鳥の歌 より
村上トシ子 著

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