東日本大震災

エッセイ

発生時のわたし

 忘れようとしても忘れられようか。いや絶対に忘れてはならないことである。二〇一一年3月十一日、午後二時四十三分、東日本を襲った巨大地震、それに伴う巨大津波を。

 そのとき私は厨房においてあるマッサージ機に身をゆだね、ウトウトと半ば眠りかけていた。突然襲った激しい揺れにも、はじめはすぐに止むであろうと、軽い気持ちだった。

 ところが、揺れがますますエスカレートしていった。これはただ事ではないと恐怖を感じなぜかトイレに逃げこんだのである。しかし、ドアの開閉が出来なくなるトイレは閉じ込められたらアウトであると後で知り、ぞっとしたのだった。

 そのトイレにいても、揺れが納まる気配がないので、さらに恐ろしくなり外に飛び出した。しかし出てはみたものの、誰ひとり私のような人は見当たらずに、周りは深閑としていた。後で友人いわく、外は屋根瓦をはじめ、危険なものが、飛んでくる恐れがあり、むしろ家の中の方が安全であるとのこと。しかし、そうだろうか、阪神淡路島地震の時は、大抵のひとは、建物の崩壊で下敷きになり、火災の発生で六千人あまりの尊い命が奪われたではないか、家の中とて危険に変わりはないとの思いが去来した。なにはともあれ、私の住んでいる埼玉県川越には何の被害もなかったと、一時はほっと胸をなでおろしたのだった。

 三分ほどの激しい揺れがようやくおさまり、家に入った。とりあえず情報を知ろうと、テレビをつけて、ようやく、この地震が東北の三陸沖を震源地とし、マグネチュード9で、千年に一度の大地震、それに巨大津波も伴っていたことを知り、愕然とした。が、そのときはまだ被害の全容を知ることは出来ずに、心のどこかで、楽観していたように思う。しかしその楽観もつかの間、それからの昼夜を分かたずあらゆるマスコミが伝える状況に目も耳も奪われ、さらに全身が硬直状態となるまで、食い入るようにテレビの画面に見入っていた。テレビに映し出される画像のひとつひとつそれはまさに阿鼻叫喚、地獄絵そのものだった。

宮城登米市のこと

 直後から、私は、宮城登米市にある、実家や姉の嫁ぎ先に電話を掛け続けた。埼玉の川越でさえこの激しさ、震源地に近い故郷、さぞかし凄いことになっているだろう、と不安が矢継ぎ早に襲う。

 比較的高台にある登米市迫町の長姉のところへは、比較的早くに通じた。壁が落ち、屋根瓦がおちた程度でけが人はなく、良かったと言っていたが、私の実家登米市中田町のことはわからないと言う。電話をかけ続けたがいっこうに通じない。そのうちに唯一の頼みの綱である、長姉のところへも通じなくなった。

 あくる日の早朝実家の弟からケイタイで連絡があった。私が心配しているだろうとの思いからであろう。

「へー良くも通じたものだ、まさに奇跡だ」と通じたことに、喜びよりも驚きを感じたほど混乱を極めていたのだった。

 今の所実家は、屋根瓦が、二、三十枚落ち、壁の一部がはがれさらに柱が一本折れたが、家族は無事だとのこと。すぐ近くに住む二番目の姉の所も同じような状態であると言う。しかし周辺の状況は皆目つかめていないという。第一報だった。取り敢えずはほっとした。

 しかしそのケイタイを最後に、十日間ほど固定電話は無論のことケイタイも一切通じなくなっていた。それからの情報はすべてマスコミに頼るほかなく、伝える内容はますます阿鼻叫喚を極めていった。岩手、宮城、福島、は言うに及ばず、北茨城、浦安に甚大な被害が及ぶとも。

 それから更に十日ほどして、電話回線もケイタイもようやく回復し、実家との連絡がスムースにとれるようになった。そして取り敢えずはわが故郷登米市の被害を弟の話から少しずつ知るようになった。

故郷登米市のこと

 登米市は登米町、中田町、迫町など八つの町村が合併してできた比較的新しい市で、宮城県の北部に位置しているのどかで美しいところである。人口は八万余、主に商業、農業を生業としている。東京駅の屋根瓦は登米市が産地であり、日本三大味噌のひとつと言われる「仙台味噌」は登米市が主な製造地である。農業について言えば「ささにしき」「ひとめぼれ」が有名、宣伝不足で新潟の「こしひかり」に一歩も二歩も譲っているが、美味しさの点では、勝るとも劣らないとは、生産者の弁である。

「震災でかく知れわたるはかなしかり、宮城登米市はわれのふるさと」震災を歌った私の始めての歌である。宮城県で気仙沼、南三陸町、石巻、東松島、若林区、名取、等と並んで登米市も新聞の被災マップに記され、全国的に知られるようになったことに複雑な思いである。

 登米市は内陸地であるので、佐沼町商店街の建物はかなり倒壊したが、津波の被害がなかったこと、死者も十名に満たなかったとのことはは不幸中の幸いと言えようか。

 被害の甚大であった他の市町村は後回し、故郷登米市の被災マップにどうしても一番に目がいってしまうのは致し方ないことだろう。

隣町南三陸町のこと

 ところで、今回の東日本大震災で、町ごと流されて死者、行方不明者が多数出た南三陸町は、登米市の隣町である。漁業で潤う美しい町で、夏は海水客でにぎわう。海辺にそそり立つようなホテル「観洋」は同窓会を初めとし多くの会が持たれる、地元ではかなり有名なホテルである。私も小中学校の同期会で二、三回訪れたことである。

 震災後一か月ほどして、登米市や、南三陸町を見たいと実家の弟に電話した。弟は「道路が寸断され、とても行ける状態ではない。例え行けるようになったとしても許可書が必要で、個人では無理である。もうしばらく待ったほうが良い」とのことだった。再び行こうと思いたつたときに、今度は寒さが到来し、暖かくなってからのほうが良いとの、弟の言葉で、いまだに、行けずにいるが、今年の夏は絶対に行くと決めている。

 今回、唯一このホテル「観洋」の建物だけが健在で、震災当時は六百人ほどの被災者を、収容したと聞いた。そして最近再開に至ったと知り、とてもうれしかった。

 隣町であるわが登米市が、この南三陸町の被災者をどんどん受け入れていることは言うまでにない。

 震災の範囲、規模の大きさは到底私の筆力で言い表せるものにあらず、例え言い表したとしても、迫真に欠けるであろう。震災地はあえて登米市と、南三陸町にしぼったのは、故郷、それに準じたところだったので、感慨もひとしおだからである。

 しかし、だからといって冷たいと思わないで欲しい。あの日以来テレビで陸前高田、気仙沼、石巻、女川、名取、福島等の被災状況の映像が流れる毎に私は何度絶句し、号泣したことだろう。そして涙の量こそ減っても、流す涙は今もかわらない。

エッセイ集 白鳥の歌 より
村上トシ子 著

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新聞歌壇にみる震災の歌

 ここに二〇一一年4月二十四日の朝日新聞の歌壇の切抜きがある。ほとんどが震災の歌で埋まっていた。投稿者も被災地居住、もしくは被災地出身であろう。遠いドイツからのもあった。その前にも歌壇には震災を詠んだ歌があったと記憶するが、切り抜いていない。4月二十四日以降もである。

何故だろうと一瞬思ったが理由はすぐに納得した。

 高野公彦の選の最後に

炊き出しに宵は貸し風呂に明け暮れる登米市の友の声清らなり

山本律子

を見つけたからだ。そう秀歌とも思わないのに、朱色のペンで囲んであった。

 登米市に敏感に反応したからに他ならない。あれからの私は、行く倍にもまして故郷への思いを強く抱くようになったのである。啄木が

病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも

と詠んでいるが、今こそこの歌が新しく響き脳裏をついてはなれない。

出張中に津波に呑まれし無言にて戻りし人の通夜さえかえる。

藤林正則

馬場あき子選の一首目の歌である。これをよんだ時、わが目を疑った。弟の知人ですぐ近くに住んでいた、Sさん、折悪しく、3月十一日に南三陸町に出張して、津波の犠牲になった。1月後にダムの入り口で遺体で発見され、身についていた車の免許証で身元が発見されたと言う。その通夜から帰ったと報告をうけたが。余りにもその人に酷似している。しかしどうも弟の知人ではなさそうだ。作者は稚内の人だからである。このような人が大勢居たんだと、あらためて今回の震災の悲惨、恐ろしさをおもい、凍る思いだった。

馬場あき子選

いわき駅構内鉄路赤錆びて津波.原発が街を滅ぼす

松崎孝明

 津波に原発がからんできて、一体福島はどうなるのだろう。皆目見当がつかない。いわき市の海沿いに建立の美空ひばりの歌う「乱れ髪」の歌碑の前で同期会のメンバー、七、八人で、写真を撮ったが、流されたのだろうか。

永田和弘選

一週間十日経っても黒怒涛津波が夢で呼吸を止める 菊池陽

 津波から危うく助かったのだろうか。読んでいる私も呼吸が苦しくなるようである。

 今回死者、行方不明者合わせて二万人以上に及ぶそうだが、大抵は津波による溺死と言う。その人たちの苦しみを思うと、身が捩れそうである。

乳搾るナカレ、耕すナカレ、種蒔くナカレ、ふくしまの春かなし

美原凍子

高野公彦選

 野原で飢え死にしている牛の映像は見るも無残で静止に耐えなかったが、飼い主はいかばかりだったろう。

永田和弘選

駅前で義援を募る子供たちコイン一個に五人の笑顔

宮元恵司

 子ども会か何かで、義援金集めを思い立ち、街頭に立ったのだろう。子供たちをこのように振るい立たせたのも、今回の地震の規模がいかに大きかったかをものがたっている。小額ながら私自身も目に触れるあらゆる募金に応じてきた。これからもその意志に変わりはない。

佐々木幸綱選

震災の歌の並べる片すみに秘密のごとく相聞歌あり

道家俊之

 ほっとさせられた歌である。多分若い作者であろう。この相聞歌にこれからの未来を感じさせられた。

 私が取り上げた、震災の歌は、一新聞のそれも一日の投稿歌からのみである。しかしこれまでにあらゆる新聞、短歌専門誌、一般雑誌、短歌結社誌、あるいは、テレビ、ラジオ、町の広報誌まで、有名、無名を問わずの歌人たちの歌が掲載されている筈である。が、それらひとつひとつに目を通すことは到底不可能で、無名者と言うのは、適当か、不適当かは別として、あえて投稿歌にこだわった。真実の生の声が聞こえるように思えたからである。

 最後は震災を私はどのように詠んだかである。被災地出身の私が、どうして詠まずにおられようか。この際歌の拙劣は問題にしない。

海神の海は愛しとも憎しとも老漁師いう座礁の船みて

 この震災で、どれほどの船がダメージうけたのだろうか。おそらくは正確には掴めていないであろう。海を憎むこころとその海から生きる糧を得ていた漁師の心の葛藤は計り知れないものがある。

福島よ、人よ、家畜よ、草木よ 哀切きわむ『新相馬節』

 元来民謡はあまり好きではなかった。若いときは、精神のお洒落とばかりクラシック音楽におぼれていった。だが震災を期に民謡に耳を傾けるようになった。民謡の多くは作者不詳である。多くの庶民の悲しみ、喜びの感情、あるいは訴え、叫びで自然発生的に生まれたものであり、そこには、必ずや美しい郷土の風景、厚い人情が、盛り込まれている筈である。津波や地震で失われても、民謡の中に存在している。『新相馬節』は流浪を余儀なくされている福島の人にぴったり添うようで悲しい。

 震災から一年ほどして、弟の車で南三陸、気仙沼、陸前高田、を半日かけてまわった。いみじくも、3月の十一日であった。あれから一年経ったのに復興の兆しは見えない。道路を挟んで右左に押しつぶされた車が山と積まれ、ある車は三階のビルの屋上に乗ったまま、陸に押し流された大小の漁船の数々、に言葉を失った。

エッセイ集 白鳥の歌 より
村上トシ子 著

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